非常に基本的な考察から構築した世界観の論文です。ページ数の関係で、ここでは目次のみを表示します。お手数ですが、この論文独自のホーム・ぺーじを作りましたので、ここをクリックしてください。←クリック(2012年)6月より)

                生物学の世界観 38

 前回の世界観には「2010.1.28」の日付があるので、ボンヤリしている間になんと1年が経ってしまったということらしい。例によって言い訳させてもらえば、年のせいか体力気力が衰えがちなため、筆が進まないため、ということになるだろうか。本当は脳力(能力の間違いではない)の衰えという説が最有力なのだが、それは最も認めたくない説である。ゆっくりと体力と気力を補いながら書けば、まだまだ書けると信じている。

 で、それを証明するためにも世界観の続きを書こうと思うのだが、時間が経ちすぎていて何とも間が抜けた気分になってしまっている。ちょっと気分を変えて寄り道をしてから再出発ということにしたい。

 ちょっと読んだ本にリンネについて書いてあったので、それを題材にしてみよう。リンネは生物を初めて体系的に分類し、現在の分類学の基礎を築いた人である。今回は彼の業績を見ていきながら、生物の分類について考えてみたい。

 


1.リンネ以前

 

2.リンネ誕生

 

3.リンネの決意

 リンネが植物の研究者として頭角を現して来るのはラップランドを探検してからである。

 ラップランドはヨーロッパの北方、スカンジナビア半島からコラ半島にかけての北極圏あたりを指す地域である(下図網掛け部分)。

 この地域にはサーミ人とよばれる人々が住み、当時は未開の地であった。どんな生物がいて、人々はどんな暮らしをしていて、どんな文化風習があってなどは「文明人」であるヨーロッパ人にはまったく知られていなかった。

 1732年、25才の誕生日前のリンネがラップランドに向けて旅立った。ウプサラの科学アカデミーがこの探検旅行に資金を提供してくれていた。

 ウプサラを出発してボスニア湾を北上する。ボスニア湾にのぞむウメオに上陸して、川沿いに内陸部へと進む。リンネにとってこの探検旅行は「探検」の名に値する唯一の旅行になる。彼は後に色々な国に出かけていったが、すべて「文明国」ばかり。見知らぬ生物を求めて人跡未踏の地へ向かったのは彼の弟子たちだから、あまり探検は好きではなかったのかも知れない。

 それを裏付けるように3日も経つと、彼の旅行メモは泣き言と愚痴であふれるようになる。

「もうくたくた。寂しくて仕方ない」

「こんなひどい道だとは思っていなかった。」

「悪天候続きで石ころだらけの道。もうたくさんだ」

 そんな中で出会ったサーミ人たちは皆やさしく、手厚く彼をもてなしてくれた。リンネはその後も機会があるとサーミ人の衣装をまとって人前に出ることが多かったが、よほどその時の親切が嬉しかったのだろう。

 サーミ人たちの親切に支えられてリンネは調査を続け、数百種類のまだ知られていなかった生物を記録し標本にした。

 サーミ人たちは彼らの言葉で植物に名を付け、役立つものは利用している。

 何故、サーミ人たちは同じ植物を自分たちとは違う名前で呼ぶのだろう。リンネは考えた。

 答えは簡単。バベルの塔が崩壊したからだ。

 

4.リンネの業績

 

 リンネによる動物の分類は、当時の動物学のレベルから大きくかけ離れたものではなかったが、植物の分類は画期的なものだった。

 「花は植物の生殖器官である」、今では当たり前だが、当時としては驚くべき見解に基づき、おしべとめしべの数と大きさによって顕花植物を23の綱に分け、花のない植物を24番目の綱とした。

 

5.リンネの使徒たち

 リンネは活動力が高く多くの書物を著した。その上有力な友人もたくさんいたので、めきめき頭角を現していった。

  

6.リンネの目指したもの

 リンネの親友の一人にエーレットという画家がいる。リンネが著書を出版する際にすばらしい絵を描いてくれた。リンネの本が評判をとれた理由のひとつは絵のすばらしさだったといわれるくらいである。

 

 目の前のものを記録し、それを分類整理する。どうやら人は、それをせずにはいられないように作られているらしい。

 もしもかつてリンネが信じたように、自然の中に神の意図が隠されているとすれば、人に生物を記載させ続けることこそが神の意図だったのではないかと思えてくる。膨大な生物の種類を前に思うことである。

                           2011.2.3