ペンシルロケット百年・糸川先生

昭和25年、ヴァイオリンの音響学的研究をしたいと、紹介状もなく東大・糸川研究室を訪れた私。とにかく研究室に来いと言われ、それ以来、糸川研究室に通うことになった。やがて大学院特別研究生という恵まれた立場にまで推薦して戴くことになった。

そして、昭和28年、アメリカの学会出席から帰国された先生が、珍しく忘年会に顔を出され 『新しい研究をはじめる事になった。何かは言わないが、希望者は後で私の所に来なさい』 と言われて、サッと席を立たれた。私は忘年会の後、真っ先に先生の所に駆け付けた。それが
ペンシルロケットの最初の担当者になるきかっけだった。その時以来、ただただ、何かに感動して生きて来ました。

昭和30年4月当時の富士精密・プリンス自動車荻窪工場から、糸川先生運転のスカイライン車の助士席に乗って国分寺のロケット試射場に向かう途中、車内のラジオ放送で ”文部省予算のロケット開発費5千万円が認められました” というアナウンスをお聞きになり、”金澤君、これでロケットの開発がスタート出来る事になったよ!” と言われました。それから先は、既に種々の報道機関で報道されて、ご承知の通りです。

そして、今年は
糸川先生生誕100年になりました。あちこちで ”ロケット開発の糸川” として賑やかに報道されると思います。

しかし,糸川先生の胸中をお察しすると、私としては、複雑な思いに沈まざるを得ません。

ペンシルロケット開発から12年後の昭和42年に御承知の通り、スキャンダルで東大教授を辞任することになってからの御活動の実態は世間には知られておりませんが、何とも大変な状態でした。東大糸川研究室関係者も含めて、先生を訪れる人は誰一人なく、私とシンクタンク関係の人たちが時折先生の事務所に伺う位になってしまいました。ここまでタイプしましたが、タイプを打つ手が止まりました。

東大辞任から、苦節の7年を経て、昭和50年”逆転の発想” がベストセラーになりしました。当時は今のようにインターネット技術もなくテレビ等も広く普及していない時代でしたので、百30万部というのは大変な数でした。物凄く深い内容でありながら非常に平易に書かれています。

更に驚くことは、37年を経た今読んでも、現代の世相を予言していると思う内容ばかりです。
"糸川=ロケットから脱却して ”逆転の発想” を是非今からでもお読み頂きたいと思います。

なお、逆転の発想という言葉は、凄く流行り、この言葉を使って著名になった評論家もいます。苦笑しておられる糸川先生のお顔が浮かびます。取り敢えず、ここで筆を置きます。2012.5.5.