「糸川英夫博士とは〜♪」
1.はしがき
1999年2月21日、糸川英夫先生はこの世を去られました.「糸川英夫」と聞けば、ある年代以上の人は“ペンシルロケット”、“逆転の発想”のベストセラー、バレエ、バイオリンかチェロの音楽会などを連想される事でしょう。若い人たちには遠い昔の人になってしまったかも知れません。
携帯電話が使えなくなったら!皆さん、どうします?
糸川先生のご指導の下で、昭和30年、日本で始めてのペンシルロケットの飛翔実験が国分寺の洞窟で行われました。
この頃、いったい何のためにロケットなるものを飛ばすのだ! と質問をうけました。日本全体がやっと食えるようになった時代でしたから、これは、質問と言うより“学者の興味で遊ぶな!”と言う非難に近かった質問でした。この時代に、“携帯電話を可能にするため”と言ったら誰も信じなかったでしょう。
今日、国際間の通話とか、登山家などが直接通話するのに用いいる携帯電話は、宇宙空間に打ち上げた人工衛星を何機か使って、そこからの電波のやり取りで通信が成り立っているのです。糸川先生の先見の明がなかったら、携帯電話の開発もずっと遅れていたでしょう。
ナビゲーターも人工衛星あってのものです。
昭和30年代には、アメリカ軍は既に人工衛星からの写真で2,30メートルくらいの精度で地上の戦車その他の軍備施設を観測していました。その事を、糸川先生は講演で、何度も話されましたが、最初の頃はそんな写真が本当に?と言うのが、大方の聴衆の反応でした。その技術が、米ソの関係改善で、民需に開放されたのが、ナビゲーターの始まりです。たいていの人が自動車にナビゲーターをつけていますし、迷子や、老人の安全のための位置確認のナビゲーター、それらは全てロケットの開発なくしては出来なかったことです。
必ずしもよく当たるとは言えませんが、われわれの上空の空模様は、毎日人工衛星からの写真で手に取るように見られます。自然保護で森林などの環境を空から測定できるのも人工衛星のおかげです。地上で歩きながら測定するより、全体を絵のように見えるように出来るのも人工衛星からの測定データのおかげです。
そんな、先見の明があった糸川英夫なる天才の行動を身近に目撃した61人々に、先生の人間面を語ってもらいました。きっと、ガキンと感じるものがあるでしょう。
突然東大教授を辞任、そして “逆転の発想“ で大ヒット
世の中の人はこの本を見て感動しました。なにしろ100人に一人はこの本を買ってよんだのですから。実際に電車に乗って活動している人は人口の何分の一ですから、町を歩けば20人に一人は、糸川先生の本を読んでいる人に出会う事になります。
このベストセラーを書いた糸川なるひとは一体どんな人?
この本の中で、インフレとか、デフレの原因も鋭く考察しておられます。また、構造改革の必要性、大国のスタンダード強制と支配、少数民族の固有文化の問題などなどを独特の感覚で解明しておられました。まるで、21世紀の始めの日本のみならず世界の混乱を見通しておられたようです。
皆さんにこの素晴らしい20世紀を駆け抜けた天才の生き様を知って戴きたいと思ってこの本を作りました。神格化された天才「エジソン」の子供っぽい行動など生き生きと書かれた本を大分まえに読んだことがあります。最近そのことがテレビでも紹介されました.私もあるエッセイのなかで、子供のころ「金魚に青いペンキを塗った本田宗一郎さん」のことを書きました.創造の才能を持った天才の生き生きとした子供のような行動には大きな共感を覚えます.
糸川先生の天才的な発想の素晴らしさ、着想の早さ、あるテーマに対しての集中力、20年以上早すぎると思えるような先見性、すばやい行動力、その蔭に、まれに垣間みえる優しい心使い、などなど、先生に接した方々が感じた先生の人間像が浮かぶようなエッセイをこの本に集めました。
2.時代ごとの記事の主な内容
T:1912〜1953
東京の西麻布にてご誕生。戦前は中島飛行機で隼戦闘機の設計者として才能を発揮。次いで東京大学助教授に就任。同時に東大航空研究所を兼任され音響利用ミサイルの研究を開始されました。当時糸川研究室に勤務されておられた小澤様(島津製作所元専務)の貴重な記録がここにあります。
戦後は音響振動に関する研究を発展させ博士論文「音響インピーダンスの研究について」を発表。当時の糸川研究室出身の桑原さんはヤマハのエレクトーン開発者となった。その次がヴァイオリンの研究。ついで、脳波計、心電計、地震計、ペン書き装置、人工の肺など主として医療機器の研究開発、さらに製作販売。正に大學発ベンチャーのはしり。
この頃の糸川先生を語る人はいまや、僅かな人しかいない。
U:1953年〜1967年:
ペンシルロケットに始まる開発の指導者としてわが国のロケット産業の推進に貢献。新聞の記事も連日“ロケットの糸川“ が報道されることもあった。しかし、先生にお供してロケット関係の会議出席し、会議が終わって先生が退席されると、会議場に残った偉い先生方から「こんな小さいロケットの実験をして何になる、糸川君にそう言って置け!」と露骨に言われたことが何回もある。そんな中傷を乗り越えてロケットの開発を推進されたことを何時までも記憶しておきたいと思う。当時の常識を幾つも破って、新しい試みを推進するのに協力された方々の記録がここにあります。
V:1967〜1974年:
東京大學を辞任されてからの数年間は苦難の道を歩まれました。ランドシステム、ランドエンジニアリング、そして組織工学研究所の立ち上げ。ミニ企業も含めて多分野の経営のコンサルタントからスタート、ついで自動車シムレーター始め各種のテーマの受託研究、さらに活発な研究会、講演会活動を徐々に進める。突飛なことを始めるように見えても、見えないところで何らかの準備をやっておられるのである.
困難の時代に先生の近くに居られた方々の率直な思い出がここにあります。
W:1975年〜1993年:
コンサルタント並びに研究講演会活動の経験を生かした「逆転の発想」誌が爆発的ベストセラーとなる。 決して偶然にヒットしたものではなく、その前の苦難の準備期間がありました。そして、非常に幅広い活動の時期。日本シンタンク協議会の主役としての幅広い活躍、幅広い分野の委託研究の実施、バレエにも出演、国際会議その他数え切れないほどの講演活動そしてユニークな著書の数々がこの時代に生まれました。「逆転の発想」は余りにも有名で、今日でも色々な人たちがこの言葉を使っています。
X:1994年〜2002年:
この時代は普通の人で言えば、晩年である。結果的にはそうであっても、先生はこの時期にさらに新しい一つの時代を作っておられます。1993年の組織工学年次大会は東京の明治記念館で行われ、何百人もの聴衆が集まりました。ここで、先生は講演の最後に人類全体の事を考える組織を創る計画を発表された。
そして、翌年、長年の根拠地、六本木の事務所を長野県音楽村に移されました。先生は最後の気力を振り絞って人生最後の仕事を東京から離れて行おうと決心されたのだと推察します。
健康の衰えを感じながらも最後まで創造の気持ちを失わなかった先生のお心を察すると涙がこぼれます。 編集責任者:金澤磐夫 (2003.7.21.記)
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