本田宗一郎さんの思い出
『本田技研は2輪車だけでやったらいい!自動車は諦めろ』と言われた時の話。
昭和50年ベンチャー企業支援を財政的に支援する目的で財団法人を創る事になり、私はベンチャー企業を代表し、通産省に協力して財団を創ることになり、その設立に成功した。
支援の合否を決めるのは、ベンチャー企業の技術審査が重要だということになった。そこで、私はソニーの井深さんにお願いしてみた。井深さんは自分より本田宗一郎さんが適任ではないかと思うので、自分から頼んでみるよいわれ、本田さんは快く引き受けて下さった。
ベンチャー企業の審査会の終了後に本田さんにソーッと誘われて料亭でいっぱいということがあった。古い格式の高い料亭で、80は越したと思われる”おかみ”が、本田さん、あの時は大変だったね!とシンミリ話すと涙ぐんでうなづいておられた本田さんの表情は忘れられない。
この料亭で、昔、通産省のやり手で有名な佐橋次官と二人だけの会合をもったのだった。そこで、本田さんは佐橋氏に”あんたの所は自動車は諦めろ”と強く言われたのだった。
『通産省』が業界に絶大な”指導力”を持っていた頃のはなし。本田技研は2輪車から4輪車に進出し始めていた。世界、特にアメリカを見れば、自動車産業は膨大な資本を必要とするから、日本では自動車会社は一社だけ、あとはトラック、バスが一社、それ以上は絶対に成り立たないというのが、昭和20年、30年代の産業界の常識であった。私は昭和30年代に当時のプリンス自動車にいたが、会社は超貧乏だったし、結局日産自動車に合併されることになった。
だから、本田技研が自動車に進出するのは大きなリスクがあったことは確か。しかし、本田技研という会社は、本田さんという常識など問題にしない、凄いエネルギーを持った人物が起こした会社だ。そして、4輪車に進出したのだった。