日本的表現の素晴らしさ・ 以心伝心語 7編 |
@:一寸の虫にも五分の魂
この格言はたいていの人は知っている。もし、これれを国際規格の単位で表現すると『3.333(以下同じ)センチメートルの虫にも1.6666(以下同じ)センチメートルの魂』となる。落語になってしまう。
A:地獄耳と千里眼
これも例えば地獄を Hell と訳し、千里を4,000キロメートルとして
『The ear of the hell』とか、『The eye having 4,000Km length』とやったら、その言葉の中になんの夢も感じない。
事実言葉どおり、いやそれ以上の距離、地球の何処からでも携帯電話一つで誰でも互いに音も映像も見られる時代になった。しかし誰も千里眼の魔法使いになったような気持ちにはなっていない。素晴らしい世の中になると言う夢が実現したとは誰も感じていない。如何してなんだろう。 散歩道
B:「結構です」という日本語」 あいまい表現とYes/Noの世界
コンピユーターが計算から情報処理に使われ出したころ、日本語はYes/Noがはっきりせず曖昧でコンピユーターに馴染み難いと悪く言われていた時代がある。
しかし、内容そのものがデリケートな場合に無理やりYes/NOに割り切って表現しても、それは形式的にきちんとしているだけで内容を正確に表現しているとは言えない。
他人に思いやりのある平均的日本人は、他人の気持ちを推察しながら話すから、どうしても表現が曖昧になる。しかし、これはむしろ全体として正しい意思の伝達法ではないだろうか?
例えば、”お茶をどうぞ“ と薦められて、“結構です”と答える。その意味は状況によって、“美味しいです”にもなるし、“いまは、無くてもいいです”にもなる。こんな情緒的なあいまい表現何気なく交わせる日本人は素晴らしい。
更に進めば考え方伝達の一つに以心伝心と言うのがある。何となくの手振りとか目配せで全てを全体として理解してしまう事を言う。
しかし、これを欧米人に理解させるのは容易な事ではない。まして、コンピューターに理解させるのは殆ど不可能である。コンピューターは情緒の面では永久に人間のレベルには達しないのである。
Yes/No だけでやっていると、全てをビジネスライクに単純に割り切る単細胞人間が生まれてくる。世界中の民族全てを『俺の言うことを聞くか、聞かないか?Yes/No どっちだ!』と割り切りたがる事になってしまう。悲しいことだ! 散歩道
C:死語になりつつある言葉:恥ずかしい
「恥ずかしい」を英語では聞けば、中学英語では即座にbashfulと来るだろう。さらに、せいぜい、shy とか、shame と訳すであろう。
しかし、「恥ずかしい」は未だいいとして、「恥じらい」とか「恥を知る」「人間としての恥」と言う意味を外国語で説明しようとしたら「新渡戸稲造」先生の「武士道」(原書は英文でかかれている)から始まって何千ページかの文で説明しなければならないであろう。
戦後に街頭録音と言うラジオ番組があったが、この頃は「恥ずかしい」といってしゃべる人を探すのが大変だ。カラオケマイクの取り合いで喧嘩をする現代の人が同じ国の人かなと思ってしまう。自由主義、民主主義と言う名もとに、「人に譲る思いやりの精神、分をわきまえ、決してある倫理の一線を越さない強さ」と言った精神は一体何処は行ってしまったのでしょう?散歩もしていられない気持ちになってしまった。散歩道20050122 (No.235)
D:幸運の星の下に生まれる
「幸運とか強運の下に生まれた」と言う表現がある。様々な苦労と災難に会いながら、それを克服して成功した事業家を評するときによく使われる言葉である。しかし、最近はあまりこの様な言葉を聞かない。
いまや、IC タグで人間が食べる肉類を始め種々の食品の出所、履歴を追跡できるようになりつつある。我々の戸籍を始め、経済状態も一億総背番号でその履歴が確認できるようになった。事業で成功した人物の評論も、これこれこの様にして成功したと、微に入り細にいり批評家が解説してくれる時代になった。
昔の人は、生まれてから他所に売られたり、えに言われぬ苦労をしてやっと世の中に出る。世の中に出るというのは、その前の事は余りに悲惨で人に言えないので、やっと世の中に自分のことが言える状態になった事を表現しているのだ。そして、様々な苦境を切り抜けて何とか運良く成功した人を“強運の星も下に生まれた”人と言う。苦労してそこを切り抜け成功した人は、廻りの冷たさにめげず、空の星を仰ぎ見て宇宙の神秘を心に取り込んで生きてきたのだと思う。
現代の現象をどのように考えるべきか、私には分からない。2005/01/22 散歩道 [2004/12/26,21:26:21] No.208
E:千里眼
1.昔はとても出来そうも無い不可能な望みとして、千里眼とか地獄耳という言葉が昔あった。いまや、現代人は皆スーパーマン。あっという間に目の前の状況を携帯電話で写し、地球の裏側の友人に瞬時にして送ることが出来る。若い女の子などは、千里眼と盗みみ眼を持っている。先生の目を盗んで教室の隣に座っている友達とメールでこちょこちょと器用にとりとめもないやり取りをしている。
2.むかし、江戸から関西まで出稼ぎに行きときは仲間がみんなで品川まで見送りに行った。品川は江戸から関西への出発点だったのだ。そこで宿場が発達し、品川心中のような落語の種ができた。その落語の“まくら“でよく話される小話。
○:見送りの仲間A:“元気で行ってこいよ。子供のことは心配するな、俺が面倒みて やるから”
○:出稼ぎに行く熊さん:“うん。ありがとう”
○:見送りの仲間B::“上さんのことも心配するな、おれが面倒みてーーーーー“
と言うような会話が交わされて、関西まで行くことになる。そして半年か一年くらいに風の便りに“誰さんはどこどこで元気に働いていたよ”と聞いて家族はほっとする。この時の風の便りと情報と、携帯電話の情報とどちらが情報量が多いのだろうか?
情報理論による情報のビット数は携帯電話のほうが大いに決まっている。しかし、人間の“感動量“という尺度があれば、風の便りにホッとするときのほうが遙かに大きいのではなかろうか?
F:後姿の情報量
これは有名な話でお聞きになった方も多いと思う。本田技研がつぶれそうになったときに、系列ではむしろコンペティターの三菱銀行の支店長が、本田さんの後姿を見て、この人の会社を潰してはいけないと、融資を承諾することに決めた。勿論、それを感じる人間性を持った人がいなければそれっきりになってしまうのだが。
私は子供の姿に凄い感動を覚える事がある。母親に片手を引っ張られながら、周りとか、地面で見つけた何かに好奇心を燃やして必死にそっちを見ようとしている姿。
母親の背中ですっかり安心しきった顔を方に寄せ、片手でそうっと親の髪の毛を撫でている姿などは、日ごろ子供を愛して育てている姿を髣髴とさせてくれる。
ベンチャー支援の仕事をしていると、パソコンを駆使し、将来予測の立派なプランがぎっしり書いてあるビジネスプランに出会う。また、このような立派な上手な案を作る手法を教えて食っている“周辺生息者”も多数存在する。
ひた向きに仕事に打ち込むより、人を感心させる事に神経を使って宣伝するのがビジネスだと言う時代になってしまった。なにか、本質的なことを忘れてはいませんか、と言いたくなるこのごろである。