姉の想い出・其の3:暗い電灯の中での英文学の勉強

昭和20年敗戦の年の3月には東京は大きな空襲を受けた。住宅地の周りを大きく囲んで焼夷弾を落し、その中を全焼させるというのがアメリカの空襲戦略であった。私は仙台と前橋でそれを経験し、辛うじて生き延びてきた。東京の我が家の場合には東京にいなかった。しかし、我が家には焼夷弾が落ち、地方に疎開して終戦を迎えた。

終戦後は親戚のお蔭で辛うじて八王子に住むことができた。食べ物の確保にはすごく苦しんだ。アメリカからの救援食料として、トウモロコシの粉があった。終戦後何年かして、それはアメリカの家畜の飼料の余りと分かったが、当時は其のおかげで餓死しないで助かった。しかし、殆どの人は、何とか農家からの食糧を獲得して生き延びていた。東大教授が教授を辞任して田舎の農家に戻ってしまったという記事が新聞にでた時代であった。我が家では農家に知り合いがなく、トウモロコシでやっと生き延びるどころか、しばしば晩飯が無くて水を飲んで寝たことがあった。

そんな時でも、電気代が少なくて済む台所の暗い電球20ワットを頼りに毎晩2時間くらいは英文学の本を小さい声を出して読んでいた姉の姿を思い出す。読んでいるのを聞いていた私が、”Once upon a time,there ---"(イソップ物語)などは暗記してしまったくらいに毎日、声をだして読んでいたのだ。

英文学が本当に好きだった姉はもうこの世にはいない。今まで、何となインターネット等で外国の情報を見ていたのだが、姉が亡くなってから、英文を見ると姉を思い出してしまい、涙で読めなくなってしまう。